先日、ネットで偶然「Giorgio Morandi / ジョルジョ・モランディ」の作品を目にした。
そして、何故かとても強く惹かれた。
ネットって本当に便利なもので、モランディで調べるとたくさんの作品の画像が出てくる。ネット上の画像なんて、実物を見るのとは比べ物にならないほど寂しい薄っぺらいインパクトなはずなのに、夢中になって一つ一つの画像を眺めてしまった。
余りにも気になって少し大きな画像を見たくなり、昨日のお昼時に大学の図書館で彼の画集を開いてみた。時間がなくて細かなことは読めなくて、ただ彼の静物画を眺めた。
モランディ(1890-1964)はボローニャに生まれ、若い頃はフィレンツェ、ベニス、ローマ、ミラノで勉強したものの、晩年はボローニャと近郊の小さな町を行ったり来たりしながら、殆ど薄暗いアトリエにこもり、頑なに同じモチーフ(古びた花瓶や器、オイル差しなど)を描いていたんだって。
モランディの画集を年代に追って見ていくと、初期の静物画は色濃くコントラストもずっと強い。それが年を重ねることにより、配色も淡いグレートーンになり、筆のタッチもとても薄いものがあった(キャンバスが透けて見えるものもあったよ)。画集のところどころには、彼の独特なスタイルの批評や、繰り返し同じ対象物を描き続ける理由を探ったエッセイが紹介されていた。
ネット上で「ジョルジョ・モランディの手紙(岡田 温司作)」の一節を読むことができた。アメリカ人とのインタビューの中での彼自信の答えだそうです。興味深い。
「私たちが実際に見ているもの以上に、もっとも抽象的でもっとも非現実的なものは何もない、とわたしは信じています。私たちが人間として対象世界について見ることのできるあらゆるものは、私たちがそれを見て理解するようには実際に存在していない、ということをわたしたちは知っています。もちろん、対象は実在するのですが、それ自体の本来の意味は、私たちがそれに付随させているような意味ではありません。コップはコップ、木は木であるということしか、私たちは知ることができないのです」
ヒトがモノを見る時、そしてそのモノに何らかの意味を見て取るとき、その意味はあくまでヒトがモノに当てつけたものであって、モノ自信が私たちに訴えていたりわかってほしいと表現しているものではナイ、ということかな。私たちは常に自分というフィルターを通して取り巻くすべてのものとの関係を築いていて、そういうモノたちを自分なりに位置づけていて、「あるがままの姿」を「ただ見る」なんて不可能だ、ということかな。
写真も絵画も、撮るひとや描くひとによって生み出されるものは違う。それってとても面白い。モランディの静物画を眺めていると、彼と動かないモノたちとの会話さえ聞こえてきそうな気がする。たいして面白くもないオブジェクトたちなのに、ずぅっと見ていても飽きないのは、モランディがとらえた瓶や器のエッセンスがにじみ出ているからなのかな。
晩年は水彩画も描いている。
好きだなぁ。
モノトーンなビクトリアの冬だから、余計にモランディの作品が今の気分に同調したのかもしれないね。
*注:絵画の画像は検索して見つけたモノです
ゆったりと、良い週末を☆
*お知らせ:写真の上でクリックすると写真が大きくなります。写真の外側でもう一度クリックすると閉じます。試してみてね☆
こんにちは!私は絵画とクラッシック音楽に関しての感性が備わってない無粋人なので、このようにある画家の絵に惹かれる貴女がとても羨ましい。ですから、ものをどう見るかなど考えも付きません。モランディの絵を見て私が思ったのは
(1)どの絵もパステルカラー、それが彼の絵の特徴?彼の個性?
(2)湯飲みや花瓶など丸みを持ったもだけではなく、どの絵にも必ず四角いものが入ってる。これも彼の個性のように思えるけど、何故?(他の人の絵ではあまり見ないように思うのですが)
的外れな疑問かも・・・忘れて貰っても結構ですよ(笑)。
ヤングさん、こんばんわ!
私も美術史や絵画の知識はないので、あくまで感覚で感じ取っているだけなのです。正直、自分が惹かれる静物画はすごく限られていて、壺や筒を描いて何が楽しいんだろうって思うこともあります。なのに、モランディの作品は見ていて飽きないんですね。彼ももちろん基本的な技術を身に付けているアーティストなので、初期の頃の作品には風景画や花の入った花瓶などもあります。でも晩年はこのように、色合いもとても限られたトーンに落ち着いていて、その中でのバリエーションが面白いです。ヤングさんもお気づきになったように、モチーフの組み合わせですが、モランディはどの形をどのように配置するかには、とても注意を払ったそうですよ。どれくらいの光がどの角度から当たるべきか、にも強くこだわり、決まった時間帯にだけ絵を描いたりしたそうです。
私自身、深い知識がないので、音楽も絵も、自分にぴぴっとくるものを少し理解できればなぁ、と思っています。
4枚目の写真を見たとき、Luigi Ghirriという写真家の本「写真講義」の表紙の写真を思い出したよ。いいね、このアトリエ。人や絵の具の匂いがしそうで、生きている感じ。
写真も絵も、イタリアの色というのかな、ドイツにはない色だと思う。太陽の色や地面の土の色が違うのかな、きっと。
良い週末を〜。
Sachieさん、おはよう!
そうそう、そうなのよっ! Sachieさんに教えてもらったLuigi Ghirri、実は彼はモランディのアトリエの写真を撮っているんだよー!ココ→☆にも一例。 この事実を見つけた時はびっくりした。だって、ついこの間Sahiceさんに教わったばかりだもん。Ghirriのことを少し検索していたから、それでモランディの絵に偶然たどり着いたのかも。
モランディはね、自然の顔料を自分でいちいち粉にして色を作っていたんだって。だからその土地の色が写しだされているのかもね〜。アーティストの育つ環境(気候)がその人の作品に及ぼす影響って、とても大きいと思う。それって切り離せないものなのかも。写真にもそういう色が出てくるものなのかな。どうだろう。
えー、面白い!どうりで見たことがあるわけだね。笑
もう1回、ちゃんと本を読んでみようっと!ありがとう 🙂
すごい偶然でビックリしたよー!
世の中には素晴らしいアーティストが本当にたくさんいるんだなぁ〜って、いつも気付かされるよ。
また素敵な作品を見つけたらシェアしてね♪
なかなか深遠なテーマですね。
なるほどモノはそれ自体、ヒトにとって何かってことが表に出るけど
モノ本人はヒトに対しての役割だけで見られるのはどうかと思ってるのかも知れません。
ん~~あたま混乱してきた~@@;
私も静物とじっと対峙して写真撮ってみようかなw
ぽとすさん、おはようございまーす!
あはは。特に深く考えるつもりはなかったんだけれど、書き始めたら長くなっちゃいました。
でも、言われてみるとそうなんですよね。モランディのこの一節を読んで、何故彼が同じモチーフを反復して描き続けたのか、何を得ようとしていたのか、をなんとなく知ることができたように思いました。「わかったぞ!」っていうしっかりとしたものではなくて、感覚でそうなんだ、って頷けた感じです。
同じ対象物を撮っても、撮る人によって写しだされる写真が違ってくるのも、面白いですよね。撮る人本人のフィルターがかかっている、んでしょうね♪
こんにちは!
何か惹かれてしまう絵…
私もときたま出会います
モランディさん、私は初めて名前を知りました!
アトリエ?の写真も絵のように見えました
芸術的な才能って本当に羨ましいです
その才能を感じたり評価したり
出来るなんて、なんか不思議ですけど(笑)
器の、光が当たってる所とか好きですよ^^
すべて物が隙間なく並べられてますね~
フォレさん、おはよう!
どんな作品に惹かれるかって、人それぞれだし、同じ人でもその時の気分などで心に響くかどうかが違ってくるよね。
私もアーティストの仕事場・アトリエを見るの、だーーーいすき。どんな空間で、どんな道具がどのように使われていて… すごく興味深い。
静物画で、特にこうして無機質なものが並べられた作品に惹かれることってめったにないので、何故なんだろうと調べてしまったの。
そうそう、モランディはオブジェクトをどのように並べるのかには、細心の注意を払ったらしいよ。
フォレさんの好きなアーティスト、また紹介してねー。
なつかしいな。この画家さん、中3の時、新人の美術の先生におしえてもらった。先生にとっては初めての生徒で、いろいろな画家を教えてもらった。
ぼくの絵の知識の半分以上が、その先生に教えてもらったといってもいいくらい。
先生をおもいだして、ちょっとじ〜んとなった。
こんにちは〜♬
見ていて飽きない、って、ほんとね〜〜〜
心が落ち着いてきて、ゆったりとしました
言葉では上手く言い表せないけど
難しい事は分からないけど
なんだか いいなぁ〜とv
私も、大きなのを見たくなりましたv(^_^v)♪
ハナマメハハさん、コメントありがとうございます!
偶然見つけた一枚の画像なんですが、それがとっても気になって。たまにそういう出会いってありますね♪
私も初めて知ったアーティストで、図書館に何冊か彼の作品集があったので嬉しかったです。
ハナマメハハさんのお近くには、美術館はありますか? ビクトリアには一つだけ小さなモノがあるのですが、有名な作品でなくても、たまにローカルアーティストの作品を見たりします。生の作品って写真とは違うインパクトがありますよね♪
asoboさん、おはよう!
asoboさんってほーーんと、色んなことを知ってる。音楽、絵画、歴史、文学、お料理、… 豊かな人。素敵だなぁ。
私は知らないことばかりだよ。asoboさんは、子供の頃に魅力的な大人(ご両親、ご親戚、先生)に出会ってきたんだね。それって何にも変えられない宝物だよね。
その先生、今はどこで何をされているのでしょう。
こんにちは! モランディ素敵ですよね。
昨年の秋ボローニャで、モランディの博物館、というよりも市役所にあったのが臨時に移されていると書いてありましたが、を見て来ました。
画集やサイトで見る彼の作品の中には、本当に美しいと思えるのがたくさんありますよね。 ですがこの博物館には作品の数は多くあったのですが、も一つ、わっ、これ素敵だなぁというのに残念ながら出会えませんでした。 好みもあるのでしょうけど、彼の作品の素晴らしいのは既にどこかのコレクションに入ってしまっているのかもですね。
友人で評論家らしき人のインタヴューのヴォデオがあり、その中でモランディが亡くなる前に彼に、ああいう方法しかなかったのかなぁと語ったと言ってました。 多分、モランディは自分の描きたいことを伝える方法として選んだあの静物の描き方を、彼なりにずっと反復していたのだろうなと思った事でした。
単なる白い静物、というのではなく、きっともっと彼の哲学的なものが含まれているのでしょうが、その辺りになると私の程度を超えます・・。
横から失礼させていただいて、一番上のヤングさんのコメントに、丸みを持った器などのほかに必ず四角いものが入るのはなぜ、とありますが、あれは丸いものの傍に四角い物があることにより、お互いの形の異質さが強調される、と言う事だと思います。
色の補色関係とか、アクセント・カラーとか、隠し味とかも、同じ意味合いを持っていると思うのですが。
ご自分にはセンスがないと仰ってますが、しっかりご覧になる目をお持ちだと思います。
shinkaiさん、こんにちわ!コメントありがとうございます。
アーティストのshinkaiさんからのコメント、嬉しいです。実は、モランディの作品集を眺めながら、shinkaiさんは生の作品を見に行かれたことがあるのかなぁ、ってふと思ったんですよ。
へぇ〜、面白いコメントです。素晴らしいなって思える作品は限られているのか、それともshinkaiさんのおっしゃるとおり、どこかのコレクションに入ってしまっているのか。それとも、実物よりも画像として写しだすことで表現される印象もあるのかもしれませんね。
「ああいう方法しかなかったのかな」というコメントも興味深いです。確かに、彼の場合は単純に目に見えるものを描きたい・表現したいというのではなく、伝えたいカタチにならないもの・哲学的なものを追求する手段として、独特な静物画を描き続けたのかもしれません。偶然出会った一枚の画像なのですが、ほんの少し時間をとって調べることができて楽しかったです。
ヤングさんへのコメントもありがとうございます!絵を描かれるshinkaiさんの意見、なるほどなぁと納得してしまいました♪
どれもこれも素敵♪
絵を描く人はまず観察力が違うね〜。
何気ないものに愛着を持って観察して表現できるのがすばらしい。
こういうどこか肩の力の抜けた絵は見る方もリラックスできます♪
harubocchanさん、こんばんわー。
ネット上でふと目にした一枚に、ぐっと惹かれたんよねぇ。不思議。
言葉では表現できない彼の絵の持つ「何か」を感じたのかな。技術的なものや単なる美しさではなくて、何かにじみ出ているもの。
harubocchanさんの好きなアーティストは誰だろう? イラストレーターさんとか。
私ははる坊ちゃんの将来に期待しているよー!
なんとなく、papricaさんのお好きな傾向がほの見えて来ました。^^
パッと見派手でわかりやすいもの、押し出しの強いものがもて
はやされる昨今の世の中だけど、地味だけど誠実な、深い思いの
感じられるこういうアートって大事だと思う。
なんか、最近わからなくなってしまって。
音楽や芸術、スポーツ(フィギュアスケートだけど)などで、
自分がいいと思わないものが、一般的にはものすごく主流なのよね。笑
いや、感じ方は人それぞれだから別にみんなが同じである必要は
ないんだけど、明らかにホンモノでないと感じるものが脚光を
浴びていると、凡人の私としてはなんかモヤモヤしちゃう。
あと、この絵のpapricaさんの記述を読んで思ったのは、
言葉って重要だけど、不自由だな~とも思ったね。
言葉によって規定されるから、コミュニケーションは取れるの
かもしれないけど、その言葉自体に縛られて「言葉に置き換え
できないもの、言語化できないもの=この世に存在しないもの」
となってしまいがち。うまく説明できないけど、言葉って
大きなツールだけど、万能とは程遠い。そのギャップを埋める
ために、人間の脳は発達してきたのかもしれないけれど・・・。
わかった気になるのは簡単だな、って自戒しました。
言葉のない世界(例えば器楽とか絵画とかダンスとか)は
deepだと思う。そこに触れねば、物の本質はなかなかわからない
気がする。
真木さん、コメントありがとう〜。
え? 見えてきた? ホントに?? 私には見えないんだけど… おーしーえーてーっ!
好きなモノを並べてみても、そこに統一性があるかどうか、自分でもよくわかんないよぅ。苦手なものははっきりしているんだけどねっ。真木さんはどんなアーティストや作品がお好きなのでしょう?
自分の中でも、一時的に強く惹かれるものもあれば、いつ見ても「いいなぁ」って思うものもありだし。だからアートの批評って、とってもSubjectiveだよね。昔とったアートクラスの先生のコメントで納得出来ないものもたくさんあったなぁ〜。
「言葉に置き換えできないもの、言語化できないもの=この世に存在しないもの」。ホントだ。まして、私の言葉のレベルでは表現しきれない物事は、たっくさんあります。。。
関係ないかもしれないんだけど、こちらで生活をするようになって初めての頃、社交の場で静かにしていたり、クラスで黙っていたりすると、それは「=何も考えていない人、おバカさん」って思われがちだということに気づいたよ。こちらの文化的なものかもしれない。何もかもスペルアウトしなきゃいけないことに疲れた時期もあったっけ。
私自身、日本語でさえ理論建ててちゃっちゃと説明したり話したりするのが苦手なので、すぱっと簡潔に言葉で表現できる人を羨ましく思うんだよー。言葉を操るのも一つのアートだと思う。
モランディさん、考えさせてくれましたね♪
うーん、そうだなぁ。
papricaさんがいい!と言ったローマの文物や景色、それに
この絵からすると、popで軽くてイージーなもの(悪いという
わけではありません)ではなく、対象と会話ができるような
もの、がお好きなように見受けられます。
・・・違うかかな?^^;
今朝、60代の日本のおばさまのblogに「若い人はヤバイ!とか
ウゼー!の一言ですべてを表現しちゃうけど、それはそれ以外の
言葉を知らないから。」だと喝破していました。
また、「言葉を知らないと考えることもできないのだ」とも。
ふーかーいーーー!!
『森の生活』のHenry Thoreauもこんなこと書いてますよ。
「大切なのは何を見るかではなく、何が見えてくるのかである」と。
だから同じ森を見ても、見る人によって見えるものは違う。
1しか受け取らない人もいれば、100受け取る人もいる。
知性に裏打ちされた感受性を大事にしないといけない。
でも繊細すぎても世の中、渡って行けない。笑
難しいねぇ。でもだからこそ、面白いのかも!
真木さん、こんにちわ~。
あははっ。分析してくださってありがとう~。面白い。
そうですね、言われてみると、総合して「味のあるもの」「ちょっと未完成っぽいもの」に惹かれるかなぁ。ポップとは少し違うけれど、色んな色や鮮やかな色合のものも好きだったりするよ。また今度そんな例を紹介してみまーす。
おばさまのコメント、的を得てますね。
若い人たちのそういう傾向って、何が原因なんだろう。私も語彙が少ないから… ドキッとします。やはり、読書量かな。あと、外から入ってくる言葉(メディアなど)の多くが表現力の薄い軽いものになってしまっている、というのも原因なのでしょうか。言葉が全てを表現できるとは思わないけれど、言葉を知らないというのは、深刻なハンディキャップ…だよね。知らないということに気づくこともできないと… 救いようがないね。
Henry Thoreau? 初耳です。真木さん、本当に色んな分野の本を読まれるんだねー。素晴らしいな。
知性に裏打ちされた感受性、かぁ。 難しい。
何事もバランスが大切、ですね。(と、あっさりとまとめてしまう私もどうかと思います)