朝の瞑想で

金曜日だ。1月最後の金曜日。

新年が始まってもう1ヶ月が終わろうとしている。

どんな一ヶ月だったかな?

と。自分にも問いかける。

のんびりと長い冬休みを過ごした後だったからか、とにかく一週間がとても長く感じて、でもひと月過ぎてしまうと「あっという間だったな」という感じもする。結構、ぜーぜーはーはーしているような、常に緊迫感に似たものがすぐそこにあるような。コロナの現状があまり変わらず張りつめた感が漂っているからかな。

私は相方と一緒に(別々の部屋で)、ほぼ毎日「瞑想」をするように心がけている。仕事の後Gusと散歩に行き、そのあと、それぞれ定位置について瞑想する。20分。ただ、夕方仕事の後となると、寝てしまうのです。最近なんて、もう初めっからそのつもりでねぇ(苦笑)。床にごろんと寝っ転がって、目の上に柔らかいタオルをおいて暗くして、薄い毛布をかぶり準備万端で「瞑想」にはいる。

こうなるとヨガの最後の「シャヴァーサナ」のポーズみたいだ。

これがねぇ、とても気持ちいい。

目を閉じてしばらく呼吸に集中していると、体がぐぐーんと重くなって床と一つになるような感覚になる。重くなって軽くなる、そんな感じ。で、気づくと「ごーん」と瞑想アプリの鐘がなる。Ensoという瞑想アプリです。これじゃ瞑想ではなくて「Power Nap」だなぁと思いながらも、頭もスッキリするしゆったりとした気持ちにもなるし、20分のリセットとして今はこんなスタイルでもいいかなと。

でも、今日は朝に瞑想をした。私が瞑想を知ったきっかけ作ってくれた、瞑想の先生のヘンリーさんが、今月末で退職される。というニュースレターが届いてね、あわてて今朝8時のヘンリーさんの瞑想ズームセッションに参加したのです。

「ズームで瞑想かー?」って、正直なところあまり乗り気ではなかったものの、ヘンリーさんに会いたくて(バーチャルでも)一言ありがとうって言いたかったので参加した。

これがねぇ〜。とても気持ちが良かった。

最初少しみんなでおしゃべりして、その後ヘンリーさんの「ガイド」で20分の瞑想にはいるのね。この「ガイド」のときに、ヘンリーさんはいつも短い話をしてくれて、私たちが「今ここに、このときに在るということ」に集中できるように導いてくれる。

その短いお話の中でヘンリーさんが言ったひとつのことに「はっ」とした。

「Thank me, myself」

「自分に、自分自身へのありがとう」という思いも、忘れずにって。

勇気を持って行動をする自分、想像力をふくらませる自分、毎日こうしてここにいる自分、色んな自分への感謝の気持ちも忘れずに。

そっかぁ!と思った。自然の美しさや美味しいもの、そばにいてくれる相方やGus、友人や同僚、離れていてもつながっている家族や友だちのことを思って「ありがたいなぁ。」って感じることはよくある。でも、自分にありがとうなんて言わないなぁって。ヘンリーさんの話を聞きながら気づいた。そうしたら妙に「じぃん」としてしまった。

ヘンリーさんの瞑想セッションでは全く眠くならなかった。深く静まりすっきりと満たされた。

こうして導いてくれるひととの「相性」もある。私はヘンリーさんが好きです。とても普通のひとで(なんていうか、ときどきいるよね、瞑想をしているひとで妙にスピリチュアル〜なカラーを醸し出している人。そういう風ではない、普通さ)、とても「まあるくて」、「みんないらっしゃい、ウェルカムですよ」って心から言ってくれるひとだから。

今月いっぱいで退職されるけれど、この瞑想のセッションはもうしばらく続けてくださるみたいなのでまた参加したい。

朝の瞑想に参加して、とても気持ちのいい金曜日となりました。

ゆったりと、良い週末を!

*おまけのGus:

ぼくちん。。。これがいいな。

まったく同じメーメーさんもってるのにっ。

瞑想。一周年!

相方と一緒に毎日瞑想をするようになって、今日で一年!

これは自分でもすごいと思う。何が一番すごいのかというと、相方と二人で毎日続けた、ということ。そのことがとても嬉しい。

きっと一人では毎日一年続けることはできなかった。私も相方も。仕事から帰ってGusの散歩の後、夕食の準備をする前に一緒にする。それぞれ固定の場所に座り、「オッケー?」「オッケー。」と声をかけてEnsoという瞑想タイマーアプリをオン。始めた頃は私のほうが少し長い時間していたのだけど、今は二人とも同じ20分。

何か変わったかなぁ、と考える。

目に見えてわかる劇的な変化、というのはない。ただ、「考えている・思考に囚われている」自分と、「感じている・感情に振り回されている・埋もれている」自分と、「ただそこにいる」自分との区別をつけられるようになったかな。そいういう自分があるということに気付けるようになったというか、そんな感じ。それと、例えば「嬉しいなぁ」と感じた時に、なんかもう体全体が嬉しくなったり、何かに腹がたったときもその感情が指の先までゆきわたっていくのが目に見えるようだったり。そしてそれをどうするというわけでは無いのだけれど。

何度か、とてもソワソワしてしまうような出来事があり、そんな日は座って目を閉じると、それこそ雑念に手足が生えて頭のなかを駆けまわっているのが目に見えそうだった。そういう日は辛かった。でも、考えてみると、今まではそういう時には私自身が「雑念さん」そのものになって暴れていた。以前の瞑想の話の時にも書いたけれど、私自身がイライラそのもののイライラくんや、めそめそそのもののメソメソちゃんになる。瞑想をするようになってから、そんな「雑念さん」と自分と、まぁ、手をつないで一緒にそわそわするような、腕一本分ほどの距離は保てることが少し増えたかなと思う(今でもクレイジー雑念さんやってることもありますが)。

最近は、瞑想の最後の数分に体がひとつになるように感じることもある。膝においた手のひらが膝に溶けていくようだったり、頭から背骨・膝から足先までが一つのカタマリになって「置かれている」ような感覚になったり。これまた、だからどう、ということではないのだけれど、この20分で何かがリセットされるような気もする。

もちろん、今も居眠ってふっと前に倒れそうになることもよくある。でも、「よだれ」を垂らしてしまうような居眠り方はもうない。

次の一年も、相方と一緒に続けていけたらいいな。続けていこう!

 

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覚書き:瞑想を8ヶ月続けてみて

秋晴れのキャンパススナップをそえて(笑)、またちょっと瞑想の話し。長いので興味のある方のみどうぞ~。

さて。瞑想が毎日の習慣になってから、8ヶ月ちょっと。

何故、毎日やってみようと思ったのかな、と考えてみる。瞑想が体や心の健康にいいのは知っていた。具体的にどう良いかではなくて、漠然と。水曜のランチタイム瞑想のヘンリーさんもアーティストのビルさんも、うん十年と瞑想を続けられている。このお二人のお顔と放つ柔らかいエナジーが大好きで、あんな風になりたいなぁ~という気持ちは常々あった。でも、それだけが理由で「頑張るのだ!」と始めたのではなかった気がする。その時は気づかなかったけれど今振り返ると、「自分が心から必要としていたことだった+ようやく心構えができた」から、という理由のほうがしっくりとくる。

自分の覚書としても、変化を記録してみよっと。

最初の数週間~1ヶ月

始めの頃は、相方と「さ、今からやるよ!」とやや気合をいれ、短い時間とにかく「座って目を閉じて呼吸に集中する練習をする」つもりで取り組んだ。そう、静かだけれど深い湖に一人で飛び込むような感じがして、えいっ、というプチ気合が必要だったな。目を閉じてみてもそわそわして色んな思いや感情があふれてきて落ち着かないことばかり。ときには、始めのベル(Ensoというシンプルなmeditation app を使用)が鳴ってすぐに、うっすらとした「不安」さえも感じることもあった。何もない静かな暗い空間でたった一人、大丈夫かな、とか、押し寄せる雑念や感情にとらわれるんじゃないか、とか。たった5分がとても長く感じることも少なくなかった。

あと、眠りの質は良くなったと思う。夜中に目が覚めて色んな思考がぐるぐる頭をめぐりだして眠れなくなる、ということが以前はよくあったんだけど、今はほとんどない。ぐるぐるが始まりそうになったらゆっくり呼吸に集中したらまた寝てしまう。そういえば、あの「羊をかぞえる」っていうのも同じトリック(?)よね(笑)。瞑想中に羊を思い浮かべて数える、っていうのもありかも〜。

変化や気づいたこと

  • もうそわそわしない。すぅっと滑り込むように瞑想を始められる。
  • 時々、瞑想中に一瞬ふわりと軽くなることがある。
  • 自由な感覚。娘としての私、パートナーとしての私、職場で働く私、女としての私、こうありたい・あるべき像を持った私…などなど、「○○としての私」から自由になれる感覚。私が私であることはどうでもいい。時々そんな風に感じる。これが心地よい。
  • 瞑想を初めて1ヶ月ちょっとした頃、(瞑想をしていないときに)ふっと湧いてくる感情にとても敏感になったことに気づいた。良くも悪くも。はっきりとした変化は、怒り、苛立ち、悔しさといったネガティブな感情が沸き起こると、実際に強い「Acidic・酸性」の液体か粒子が体の中に放たれるように感じるようになった。しゅわぁ~っと。コレは辛い。体が内側から錆びてしまいそうだから。悲しい・寂しい・不安といった感情には静かにきゅぅっとしめつけられるような感じ。嬉しい・楽しいという感情は、こめかみの辺りを軽くさせ、体全体でありがとうを表現したくなる。大げさに聞こえるかもしれないけど、そんな感じなのです。
  • 言葉にならないモヤモヤしたものが、ときどき瞑想中に涙になって流れ出ることがある。すっきりする。
  • 起きてるのか寝てるのかわからないことがある(多分、寝ている)
  • 説明の付かないイメージが浮かぶ。回転するロブスターとか。アイスバーのアイスがスカイブルーの象の頭とか。訳の分からなさ度は夢に似ている面もある。

こうしてみてみると、私の場合、瞑想中にまだまだたくさんの雑念や感情がよぎり、瞑想という手段で普段消化できていないものを処理(?)しているようにも思える。

「感情」が以前よりもずっと具体的なカタチを持って現れる、というのは半年過ぎた頃に気づき始めたかな。なんていうのか、以前は「困ったな」とか「嫌だな」とか「腹立つ~!」っていう悩みの種になりそうな感情が起こると、気づかないうちにその感情そのものになっていた。困ったちゃんとか、ムッスリちゃんとか、凹みんべぇとかになって、そんな顔して歩いているっていうの。それがね、困ったちゃんになってしまう前に、困ったな、っていう気持ちに気づいて様子をみるようになった、そんな感じ。もちろん、100%そうなったわけではなくて、今もムッスリちゃんしていることもあるっ! ただ、自分で「今」どうすることもできないなら横に置いておいて、とりあえず笑っていようかな、って思えるというパターンが増えてきた。それもオプションだなって思えるような。

このパターンは、マインドフル瞑想中の基本的なもの。雑念が浮かんだら、それを「いけないいけない!」ってジャッジするんじゃなくて、「あ、雑念だ」と気づいてあげてとりあえず手放して呼吸(またはマントラ)に意識を戻す、というの。そういう意味で、ムッスリちゃんや凹みんべぇになる頻度が減ったのは、瞑想のおかげかなぁ~って思う。

でもでも、座禅をくんで目を閉じてマインドフル瞑想をすることだけが瞑想ではないもんね。庭で草をぬいたり、ゆっくりと体操やヨガをしたり、空を見上げたり、泳いだり、歌ったり、丁寧に雑巾がけをしたり、散歩したり、というのも瞑想のひとつじゃないかな。

最近では、瞑想が脳に及ぼす影響を科学的に研究する学者さんたちの文献も注目されているようで、学術文献をわかりやすく説明しているネット記事もたくさんあり、読んでみるとなかなかおもしろい。日常的に何時間も瞑想をするチベット僧の脳は、普通の人よりも「灰白質(かいはくしつ)」の割合が高いとか、それが何を意味するのかとか。瞑想とマジックマッシュルームの共通点とか♪
またその話は今度~。

absolutely gorgeous day. everything looks beautiful in the gentle autumn light.

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