今、というとき

イタリアの小さな田舎町の様子を見ていて、相方と思い切ってローマの友だちのところに遊びに行ったことを思い出した。あのときに行っていて良かった。当時も呼吸器系の問題で私が願うほど自由にたくさん歩くことはできなかったし、私一人で散策に行ったりもした。それでも、友だち家族に連れてもらった田舎町や、ゆーーーっくりペースのローマやフィレンツェの散策は本当に楽しかった。
あんな風に一緒に旅ができたらどんなにいいだろう、彼もきっと喜ぶだろうなぁと思う。実際、今の状況を見ている限りでは、もう一緒に海外に行くことは無理だ。彼の体力も、私の心理的強さも、「どこでもドアがあって扉を開いたら目的地!」でない限りは無理だろう。

いつもいつもこんな風に「ちょっと寂しいなぁ。残念だなぁ」と感じているわけではない。ビクトリアはとても過ごしやすいし、ストレスを感じることなく毎日をおくれているのなら、そんな贅沢はない。ただ、時々、ネットやSNSを見ていて「こんなところに一緒に行けたら、彼も楽しいんだろうなぁ。」と思ってしまう。

そして、いつもいつも彼に対して優しい気持ちでいることも無理でして。
短期記憶障害があるので、同じことを何度も私に聞くことはしょっちゅうだ。特に何も思わずに聞かれるたびに答えることができることもあれば、昨日のように「あぁ、もうっいい加減にしてくれっっ!」とキレることもある。私がキレたところで何かが解決するわけでもないのに、キレずにはいられないときもあるのです。

でも、いつかは自分もおばあちゃんになる。身体が自由に動かなくなり、彼と同じように同じことをひとにたずねなければいけなくなるかもしれない。そのときに、聞いた相手に苛立たれたらどんなに辛いだろう。半時間前に聞いたことが全く記憶にない、っていう状態はどんなものなのだろうと想像することもある。当たり前だけれど、わざと忘れているでもなし、聞いたときにいい加減な気持ちで聞いて覚える・理解する気がなかったというわけでもない。ただ、スコンと抜けてしまうのだろう。
それがわかっていても、「ああもうっっ」と苛立ってしまう自分も嫌になる。

大切な友だちのひとりは、今、乳がんと戦っている。自分で「何かがおかしい」と気づいたのが1年前の初夏。すぐに検査をしてもらって治療を受けたかったけれど、家庭医はバケーション中、自分で病院にダイレクトに問い合わせても相手にしてもらえない、という夏が過ぎ、きちんと検査を受けたのは秋だった。それから化学治療、放射線治療、ようやく手術をしてもらえたのは今年の6月。
何度も電話で様子を聞くのも気が引けて、メッセージを送っては返信を待つ。

彼女との2年前の夏のことを思い出していた。私の昼休みに合わせてキャンパスに来てくれて、一緒に散歩をしてベンチに座り、いつも自分の持ってきた果物を「食べてみて」と分けてくれた。お互いの旦那のことを「まったく、男ってなんであんなふうなんだろね!水を飲めっていっても飲まないよね!」なんてことを言い合って笑っていた。本当になんでもない普通の日の散歩だ。そんな場面が、とてもきらきらと思い出される。

変わり映えのない日常の一場面が思い出される度に、今日という日のなんでもないこのときがとても幸せなんだろうと思う。何年か先に思い出すことがあったら、きっとキラキラしてみえるに違いない。

歳のせいなのか、ときの流れの速さに戸惑うからなのか、最近立ち止まるとよく「きっと今がきらきらなんだ」と呟くことが増えた。