表現することとさせてもらえるありがたさ

数ヶ月前に見つけた人気の「ほぼ日刊サイト」。糸井重里さんが毎日書かれているエッセイは、知っている人もたくさんいるよねっ♪ 以来、私もほぼ毎日記事を楽しみにして読んでいる。「ほぼ日」で紹介される記事には、本当にしょっちゅう、ふむふむと頷いて感心したり、「そのとおりだ!」と同感してしまう。それに、ほぼ日の記事って、どれもとても丁寧に書かれていると思う。「美しく流れるような」形式重視の文章ではなくて、考えたことや感じたことを「噛み砕いて丁寧に」表現されている。そういうスタイルの文章だからかな、私も読みながら、ふと止まって考えてみたり、読み終わってからも思いをめぐらすことがよくあるのです。

「ほぼ日」の中には色んなコーナーがあり、どれもとても興味深い。その中の「山田ズーニー先生のおとなの小論文教室」は、私の one of favorite です。このコーナーでは、読者の意見や感想も紹介されていて、自分のような普通のひと(作家や評論家じゃない凡人さん)の言葉が心に響くことがある。今日読んだ記事「あなたには表現力がある」っていうのも面白かった!→☆記事

ズーニー先生の比喩を引用すると:

「トイレに行かない人間などいないように、
表現しない人間などいない。」「表現したくない・できない人間だ」と言うのは、「自分はトイレに行きたくない・行けない人間」だ、と言ってるような、ちぐはぐな響きが、私にはする。

したい・したくない、にかかわらず、
表現は「するもの」「せずにおられないもの」だ。

あまりにも表現する機会がなさすぎたり、
自分で表現することを押し殺していると、

人は、おもらしするように表現する。

でも、「出てしまった」というのは、
これはこれで、想いの表出、美しいというか、
出ないよりずっといいと私は思う。

問題なのは、
さらに想いをせき止めていると、
いつか、なにか別の、ゆがんだ形で、
表れてしまうことだ。

読み始めたときは、『ちょっと無理がある喩えかな』って思ったんだけど、読み終わってから、なんて分かりやすい喩えなんだろう☆ って感心した。

表現することそのものが、一人一人に備わった自然な行為であること、には私も同感です。歌をうたったり、絵を描いたり、文章で表したりする人もいれば、たくさんの言葉を操ったり、体や感情で表したり、それこそ色んな形で表れる。「表現することを我慢し続けると、おもらししてしまう」っていうのも、私にはよくわかる。

というのも、こうやって考えていると、私自身「おもらししているかも」という時があるもんな。トイレに行くのを我慢しているときに「ムズムズ」するように、ぼんやりとした「何か」を外に出してしまいたい=表現したいのに、それができなくて(仕方がよくわかんなくて)ソワソワしたりイライラしたりするのです。そういう波が押し寄せることがある。

で、ふとブログのことを考えました。毎日をただただ流すように過ごすのはよくない、日本語を書かないと書けなくなる、何か一つ毎日続けよう、と始めたこのブログ。毎日のリズムを作るだけでなく、気づいたら、ここで助けられていることがたくさんありました。

足踏みしておもらし寸前のときに、ページをひとつ開いて何でもいいからちょこっと書いてみる。すると、不思議とスッキリしている。

そして、こうして読んでくれるひとがいること、一言残してくださるひとがいることにありがたいなぁって思いました。 今日の「おとなの小論文教室」の最後に「文章は、読んだ人に届いてはじめて「表現」として成立するのではないか。」ってありました。本当、その通り! 会ったこともない方の一言コメントを読んで、気持ちがすぅっとするのは、「届いたんだな」って実感できるからかな。

と。あらためて。

ブログに来てくださって、読んでくださって、どうもありがとう☆

シダの葉っぱ

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言うか言わないか

10年以上もカナダに住んでいても、ものの考え方が少し日本人離れしても、やっぱり私は日本人なんだと時々思う。

うちの父は「言わなきゃいけないことを言わないでいる」ことがとても多い(多すぎる)。母は「言わなくてもいいことを言ってしまう」ことがよくある… そして、私はというと、

グラフ

ピンクの星の辺りをただよってます。

言わなくてもいいことをズバズバと言う母に言われたことで傷ついたりしたことがあるので、相手に言いたいことを言わなかったり、言葉にする前に「どうやって伝えようか」とあれこれ考えすぎたりすることが多い。でも、言わなきゃいけないことをちゃんと言葉で伝えない(伝えるのが下手)な父に対して、「ちゃんと言葉にした方がいいよ」と思うこともよくありました。

英語で暮らすようになってから、言いたいことを結構そのままストレートに言えるようになったと思う。言語がそうさせるのか、こちらの文化がそうさせるのか、日本語ではためらうことも、英語ではすんなりと言葉に出せることが多い。それでも、未だに「一体何が言いたいんだ」「そのまま言えばいいじゃん」って指摘されることがある。これって、日本人的な思考のせいでもあるのかな、って思ったりもする。『私がこう言ったら、きっと彼女はこう感じてしまうだろうから、こういう言い方をした方がいいよな』って、さささっと考えて言葉にしたり。で、私にとってはむしろ、思いやりというか気遣いから、そういう答え方をしたとしても、それが逆に相手を戸惑わせたり混乱させてしまったり。ということがある。今でもある!

日本にいるときや、日本人と話しているときは、「あ、きっとこの人はこういう風に気遣ってこんな言い方をしているのかもしれないな」って、雰囲気や行間を「読む」ことができるし、相手もそうしてくれる。ココではいつもそういう風にいくとは限らない。で、私は時々、今でも、相方との間でも、なんでそうなるの?!と会話が会話にならないこともある。

フィルターを通さずに、思ったことを思ったときに思ったとおりに言うことも、きっととても大切なんだろうな、と考えていました。そういう努力をしてみようと思いました。

種

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