秋だからぼぅっと考えてつぶやく

最低気温が8度だから、通りで朝晩は冷えてきたわけだ。今朝は少し厚めの自転車用ジャケットを羽織って通勤。もちろん手袋も。ひんやりの朝の通勤路では目が覚める。「みなさん、おはようございまーす!」と叫びたくなるほど爽やか(叫びはしないけどつぶやきます)。

平凡な毎日がとてもありがたい。

水曜日はランチタイムに瞑想がある。この集まりをまとめてくださっているヘンリー先生が、いつも20分の瞑想の前にほんの少しだけ話をされる。堅苦しいものではなく、天気のことだったり、庭や草花や野菜の話だったり、先生の何でもない一日の一場面についてだったり。今日は、瞑想を続けていくと、色んな雑念や感情にたいして「テフロン加工のフライパン」になったように感じるときがあるよ、っていっていた。雑念や感情が浮き上がってきても、フライパン(自分)にくっつかず、ひっくりかえしたらつるんと落ちてしまう、という感じだって。執着しない、考え事や心配事、喜びや怒りや苛立ちにとりつかれたり、そのものになってしまわない、浮かんできても表面でつるん、ってそんな感じなのだろう。

私はテフロン加工のフライパンを経験するよりも、起きているのか寝ているのかわからないような状態のことが多い。瞑想を初めて最初の1,2分はあちこちに飛び散っている思考や感情がイメージになったりもする。今日も最初に青いふわふわしたボールが見えて、その後、ポップコーンの紙袋が浮かんで、その紙袋のしゃきっとした質感と折り目に好感を持った。静まってくると少し意識が飛んで眠ってしまっているかも。そしてしばらくすると、自分の両手が心地よく重たくなり、膝に溶けていくような感じがすることもよくある。

瞑想をするときのようにゆっくりと鼻呼吸をしながら海を眺めていると、この水面を歩けるような気がしてくる。わかる?その感じ?

今日は散歩途中に2匹のかわいいにゃんこに出会った。

Gusは静かにしていたものの、仲良く歩いているところをじゃましてしまってごめ〜ん。 黒猫ちんはとても警戒していて、向こう側のシャム猫(?)はGusに興味深々。少し離れて見ていると、その子、ゴロゴロと喉を鳴らして近寄ってきた〜。私一人だったら挨拶できたけど、Gusがいたから遠くから「ごめーん、今日は無理〜」と言っておいた。猫アレルギーあるけど、にゃんこもかわいいな。

おまけのスケッチ。

いいお天気が続くといいなー。

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100枚の絵を描くプロジェクト・3枚目

ブログのお友達の umiさんが、少し前に「100枚の絵を描くプロジェクト」を紹介されていた。umiさんはまだ小さな赤ちゃんのいるお母さんで、きっと自分の時間というものを作るのもとても難しいのだろうけれど、絵を描いたり、文章を書いたり、展示にいかれたりワークショップに参加して彫刻されたり、限られた時間の中でとても積極的に、でも無理のない範囲で「想像・創造」されている。その姿勢が素晴らしくて、いつも刺激をもらっている。

umiさんが「横尾忠則さんの言葉」(下に引用)を味わい思いついたのが、100枚の絵を描くプロジェクトなんだって。

「絵は1枚描くと1枚出来る。描かなければ1枚も出来ない。もし100枚描くと、描かなかったはずの100枚の絵が見れるんだから、やっぱり描こう。陽の目を見ない絵が身体の中にいっぱいあるらしい。それが出たがっているはずだ。」

 

その通りだなぁと思う!

なぁんとなく「吐き出したいなぁ=表現したいなぁ」という思いはあっても、具体的に何を?となるとなかなか手が動かないことが多い。去年は半年ほど「一日一描」をやっていた。主に線描で。あのときはああいう気分だったんだと思う。今年に入ってからはその「気分」が薄れてしまい、ただムズムズした感覚だけがくっついてまわっていた。春先まで、このムズムズ感に焦りさえ感じていた。でも何もできずにいた。どうやってリズムを取り戻せばいいのかわからず、「sketch everyday」なんて言葉で検索してみる。するとよくあるのが、365の単語のリストにそって、とにかく列挙されているものを1から順番に毎日描くのだ!というもの。リストにあげられているのはかなりランダムで、「好きな道具」「木の葉」「感謝しているもの」「朝ごはん」などなど。提案されるのはいいのだけれど、気持ちがのらないので続かないし楽しくない。「やらなければいけないタスク」になってしまう。

瞑想をするようになってしばらくたったころ、それほど焦らなくなった。ムズムズ感も柔らかくなってきた(これが瞑想の効果かどうかはわからないけど)。で、umiさんのこのプロジェクトのお話を読んで、毎日じゃなくても、描いてみて100まで枚数を数えるのなら続くかも!と思った~。

で、これが昨日の3枚目。デジタルもありということにしたヨ。

Doodle Marathon にもアップした:experiment: japanese anemone

花を描いたのは初めて。まだまだ使いこなせていないタブレットで、デジタルだけど無機質になりすぎないように、絵の具だったらどんな風にしたいかなぁって思いながら。ほこりをかぶっているサブ・ブログ「Doodle Marathon」の方にアップしているのは、大抵、目(頭・心)に浮かんだものを描いているので、写真を参考にして描いてみたのも初めて。

ぼちぼちと。100枚描けたらいいな。100枚目に到達するまでに、「こういうのが好き」「こういう風にしたい」っていうのが見つかれば嬉しい。マイペースで数えていこう。

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一日一描より:色鉛筆+水彩を試すの巻

最近の一日一描より。

数ヶ月前のこと、水彩を使ってのスケッチを試してるよ〜(→☆記事)と書いた。けど、どうもしっくりこない、というか、どの辺りまで色をのせたいのかわからなくなってしまうことが多かった。ペンでする線描は、自然とアウトラインがメインになってそこに気持ち、影を加えるという具合で落ち着いている。でも、色を使いたくて水彩(携帯の透明水彩)でトライし始めると、何がしたいのか本当にわからなくなってしまっていた。

その時に、イタリアにお住まいの水彩画家のShinkaiさんから「アウトラインを描いたところに色をのせるようにしては?」と、温かい助言を頂いた♪ とっても嬉しかった〜(ね?ブログをやっているとこんな素敵なコメントもいただける♪ ありがたいです)

線描に使っているのはフリクションの水性のペンなので、これで描いて水彩を使うと黒くにじむ。なので代わりに水彩色鉛筆一色でスケッチすることにした。ペンよりも柔らかい雰囲気になって、それが新鮮。

そして、その水彩色鉛筆でスケッチしたところに、水彩で色をのせてみることにした。

一日一描
クリックすると大きくなります。

スケッチしたアウトラインのあるところに色をのせる、ということが、「塗り絵」をすることになったら嫌だなぁというためらいもあった。でも、私の線描はへろへろとした線だし、色をのせるときは写真で見る色のそのままを「塗りつける」のではなくて、布や光やモデルさんから受ける印象などを「置いていく」ような感じで色をのせるのを心がけることにした。

一日一描
眩しい夏の日差しが素敵だったので選んだ。

写真に映っている色を全く無視している。ただ、濃淡や陰影だけを参考にさせてもらって、あとは私の印象から選んだ色。なので、終わって眺めると、人の顔が「宇宙人系」や「爬虫類系」になっていたりする。。。ま、それも愛嬌。

一日一描
写真ではカールした髪に光が吸い込まれていてきれいだったの。

本当に、まだまだ絵の具の使い方は手探りで、おもいっきり試行錯誤中。けれど、な~んとなく、気持ちのいいトレーニングだなって思えるようになってきた。色鉛筆の線描は形を捉える練習になるし、水彩のステップはやっぱり色を使えるというので楽しい。やり直しはきかないので、「げっっ。しまった。。。」モーメントもしょっちゅう。それもちょっとドキドキしていい。

一日一描
おっちゃんのクレイジーな髪に惹かれて選んだ。

もちろん、ペンだけの線描の日もあり、デジタルタブレットのDoodle昨日、久々に一つアップ→☆)をするだけの日もある。色鉛筆+水彩は「これ!」っていう画像を見つけるのにも描くのにも時間がかかるので毎日はできない。週に2~3日は頑張りたいなぁと思う。一週三描、かな♪ ぼちぼちと。。。

*おまけ:ダリ展

父が京都市美術館で開催されている「ダリ展」を鑑賞して感激していた。約200点の作品が展示されているらしいよ~。京都では9月4日まで、その後9月14日から12月12日までは国立新美術館で見ることができるそうです。父は毎月、旧友などにニュースレターを送っているんだけど、今月号の中でこのダリ展の感想を書いていたので紹介しまーす。あぁ、わたしも見てみたい!

ダリ、と耳にすると作品よりもまず針金のようなとんがったヒゲとギョロ目は誰の目にも強烈きわまりない。もちろん奇怪さでは絵も負けていない。飴のようにグニャリと曲がった時計などの作品から、私が学生の頃、影響を受けて、今から思うと形だけを真似た作品をつくったことを思い出す。
昼の現実よりも、夜の夢からやってくるビジョンをインスピレーションの源とするのがダリなのだ。夢の内容を驚愕するほどに克明に描写する。まるで目の前にある現実であるかのように描く。夢も現実の事象ととらえていたのであろうか。夢であろうがなかろうが、ダリは常に「現実らしさ」とはなんなのか。現実と虚構の違いは、いったいどこにあるのかについて探求したと思える。その境があいまいなら、自分の存在について悩んだことであろう。
広島と長崎への原爆投下を知って、大きな衝撃を受けた。これほどの悪夢は他になかろうと・・・。そして、それをどう描くのか。具体には「ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌」(1945年)と題して描いている。実際、今、目の前でその作品を鑑賞している。
その後、ダリは精神分析を踏み越えて、量子力学や相対性理論にまで及んでいく。科学と芸術も飴のように溶けて、一体の世界となる。それがダリの魔術的な現実にほかならない。 (by 父)

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